大事な話題を一つ。
30代も終わりに近づき、Ph.Dを取って10年が経過した。すなわち10年間働いたということになる。長いような短いような。
大学院生の時から数えると、15年以上研究をしてきたことになる。この間ずっと感じていることがある。
それは「自分の評価と他人の評価の隔たり」である。
当たり前なのだけれど、自分の評価はいつの間にか甘くなってしまう。甘くなっているつもりはないのだけれど、”他人から見る”と甘くなっているのだろう。
研究室でもしばしば学生やスタッフに言っているのだけれど、研究室に所属して論文投稿や学会発表で大事なことは、「本当の他人の評価を体験すること」であると思っている。
レポートだったら大学の教員なのでどんなものでも目を通す。学生が研究を頑張っていたら、たとえ成果があまりでていなくても努力は認める。しかし、外向けに発表した時にはそうはいかない。少しでも論文が読みにくかったら読むのを止めるだけだし、相手が興味がなかったら、こちらがどんなに全身全霊をかけた研究発表でも聞き流されて終わりである。そもそも発表の機会すら与えてもらえないことも多い。
仕事をしていくと目に付くけれど、こんなに頑張っているのになぜこんなに待遇(給料、職位、福利厚生、権限など)が思い通りにならないだろうと、多くの人が思っている。その原因の1つが自分の評価と他人の評価の隔たりであると思っている。
研究室の学生やスタッフには、「仕事をしていて、月給100万円くらいの働きをしている!」と自分で思っていたら、「だいたい3分の1の月給30万円くらいだ」と言っている(数値には特に根拠はないけれど)。だから、月給100万円欲しかったら、自分では月給300万円もらっても良い働きをしなければならないと思っている(300万円分の働きとは、売り上げが300万円ではないことは言うまでもない)。
当研究室では積極的に論文投稿を推奨しているのだけれど、その理由の1つが、論文を初めて投稿すると味わうのが他人の評価との隔たりであり、これを経験できるからである。「この研究は面白い!」、「もうこれだけ実験をやったんだし、すぐにアクセプトでしょう!?」と思っているのに、論文を投稿するとあっさりリジェクトになってしまったり、リバイスでたくさんの追加実験を要求されたりする。ものすごい辛いリバイス実験をして、それでもトップジャーナルではない雑誌にやっと掲載される。びっくりするほど他人が評価してくれないことに気づくのである。
今現在も、大学専任講師として研究しているが、自分の評価と他人の評価には隔たりがある。自分では「もう十分でしょう!?」と思っているのであるが、他人はそう簡単には認めてくれない。学生の話ではなく、社会人一般の話だと思っている。自分の待遇を嘆いている社会人が無数にいるのはご存知の通りだろう。ずっとこの隔たりと戦っていかなければならないと考えている。
しかし、こういう時に腐ってしまうか、常に考えて改善をして、何度もチャレンジできるかで人生が決まってくると思う。周りの人をみるとみんなサクサクうまくいっているように見えてしまうのだけれど、実際はそんなことはない。うちの研究室もどんどん論文が出ているが、どの論文もとても苦しく、ギリギリのところで通っている。もちろん、落ちたものは世の中にはでないので、周りの人が知ることはない。
このように、研究室で体験してほしいことの1つは「本当の他人の評価を受けること」であり、それがいかに厳しいかを味わってもらうことである。辛い思いをしなさいというわけではなく、厳しい評価を一度受けると二度目は少し慣れてきて冷静な判断ができるようになる。そして、冷静に改善ができるようになる。世の中を呪って愚痴を言っても何も生まれないことに気づくのである。
何歳になっても自分の評価と他人の評価の隔たりはなくならない。毎回そう思う。しかし、自分が100%の力を出しても評価をされなかったら、もう成長するしかない。そのような状況に追い込まれてこそ、初めて成長すると思っている。辛いことなのだけれど、次第に慣れてくるので、頑張って挑戦を続けてほしいと考えているし、自分も挑戦し続けなければいけないと考えている。
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