2018年10月29日月曜日

I.F.を気にすることはいけないのか?

少し前の話だけれど、I.F. (インパクトファクター)という言葉がドラマにも出てくるようになったらしい。



I.F.は、過去2年間(または過去5年間)の引用総数を、出版論文数で割った数である。論文雑誌(ジャーナル)の格付けに使われている。

要するに、良い論文はたくさん引用されるはずであり、たくさん引用される論文が掲載されず雑誌は良い雑誌である、という論理である。

Cell, Nature, Scienceなどの有名雑誌はI.F.が高い。

著名な雑誌以外を選択するときには、I.F.が高いかどうかを見て、投稿するか否かを決めることもある。

このI.F.には批判があり、その中の1つは、たくさん引用されればよいのか?というものである。これはI.F.という雑誌その指標だけではなく、個別の論文の被引用数を指標とする場合も同様である。

実際、I.F.や被引用数を上げるために、自分たち(雑誌に関連する人たちや著者自身)で引用をしまくるということが行われている。こうして、I.F.や被引用数が釣り上げられていることも多い。

ということで、I.F.は世界的にものすごく批判されている

ただし、そういう批判の中でたまに目にするのが、

「I.F.を気にする人は、I.F.ばかり気にして、論文の中身を見ていない」

というものである。

そういう場合もあるかもしれないが、この批判は少し違っているように思える。

なぜならば、I.F.に高い雑誌に掲載させるためには、「ものすごく中身を充実させなければならないから」である。

うちの研究室でも、最近はI.F.が2~4、せいぜい5くらいの論文が増えてきてしまった。実際に出してみるとわかるが、I.F.が5, 6以上になると、途端に難しくなる。

これ以上の雑誌に投稿する場合には、少なくとも論文2本分以上のデータを費やしている

極端な例かもしれないが、自分の例を1つ。

The Plant Journalという植物ではそれなりに格式のある雑誌に論文を掲載したことがある。

この論文に使ったデータは、実は別の2本の論文としてすでにほぼ完成の段階まで作られていたものであった。

2つの論文を作成し、なんと英文校正までかけて、さあ投稿しよう!という段階であった。

ところが当時のビックボスより、「まとめて良い雑誌に出しなさい」という神の声(?笑)があり、1つにまとめてThe Plant Journalに出した。1つにまとめるにあたり、そのまま長くするのではなく、無駄な部分をそぎ落としまくって、濃縮することになった。これが結果的にとても良かったと思う。だらだらした論文なんて読みたくないので。

The Plant Journalよりももっと良い雑誌に掲載しようと思えば、さらにデータが必要が必要だったり、新規性が必要である。下手すれば論文3本分、4本分のデータを濃縮して費やしているものもあると思う。

なので、I.F.にこだわることはよくないと思うが、世界的な批判の波に乗って、I.F.にこだわる人は中身を見ていない」と結論づけるのはまったく正しくないと思っている。

さらに、I.F.が批判されるあまり、論文の本数そのものや、h-indexや個別の引用数などを指標とする動きもあるが、これらがI.F.よりもフェアであるという論拠を見たことはないし、結局は流行り過ぎればI.F.と同じ道をたどると思う。

むしろ、h-indexや引用数の方が、とにかく論文を量産して、引用しまくれば上がっていく。全然フェアではない。

I.F.はだめだけれど、引用数やh-indexは良い!なんて言っている人を見かけたら、おそらく自分がその指標を使った方が有利なだけだと思って良い。

ということで、(指標にこだわるのがそもそも間違いであるというのは当然のことだが)、I.F.の高い雑誌を目指している人を、論文の中身を考えない人とするのは的外れな批判であると思っている。

そもそもこういう議論が巻き起こる原因はなぜかといえば、ようするにマウンティングからくる感情論だと思う。しょうもない勝った負けた程度の話に起因することが多い。

なので、指標はそれほど気にせず、まあ、良い雑誌に通った人がいたら、素直におめでとうと言えばそれで良い気がする。I.F.の高い雑誌には良い論文も多いので、それを全否定してしてしまうのは、I.F.しか見ないことと同義であると考えている。

気にしていない、気にしていない、と必死に言い続けるのは、気にしている証拠である。自分は、適度に気にして、内容を良くして、せっかくならばレベルの高い雑誌に掲載したいと思っている。

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